紅一点 -おたくの界隈-

リハビリ三回目をすっぽかすチョンボをしてしまったのでずっと頭の中にいた思考を吐き出したいと思う。

 

今回はタイトルにあるようにおたくの界隈における

「女性ユーザーの理不尽とも言える不遇な環境」

をテーマに話を進めていきたいと思う。

 

 

0:紅一点とは

なんかの漢語で緑の草むらの中に一輪の赤いザクロが咲いていたって意味で

なんとかかんとか紅一点

って書くのが由来らしい、聞いた話なので定かではない。

今では男性集団の中に女性が1人混じっていることを指し、これに対しての反論はないかと考える。

重要なのはおたくの界隈における紅一点の形成のされ方にある。

よく人間には二種類の人間がいる、なんて漫画の登場人物が言ったりするがおたくの界隈の紅一点にも二種類あるはずだ。

 

・意図的に形成された紅一点

・不遇にも形成された紅一点

 

前者については漫画等々で大袈裟に描かれたりもするが実在するし秋葉原で見かけたりすることもあるかもしれない。大半はこのタイプではなかろうか。

後者については後述。

この二つの違いは同性を陥れるかどうかで差が生まれるかと思う。

この二種類を混同させるとトラブルが起きかねない、というよりも現実問題起きているところもあったりする。

善悪を決めるわけでもどちらか一方を軽蔑するものでもなくそういうものだという前提のもと本記事を読んでいただきたい。

 

いやそれどっちにしろオタサーの姫ですやんという意見もあるかとは思う、しかしながら考えていただきたいのは自らオタサーの姫でーすキャピキャピッって言いながら活動してる人間がどれほどいるのかという点、今回の最重要議論点である[「私姫じゃないし」という反論]に対し何人もの人に反感を喰らうかが明確でない、二つの理由から上記二点を次のように定義する。

 

・策略的紅一点

・必然的紅一点

 

本記事では必然的紅一点について焦点を絞っていく。

 

 

1:おたくの界隈の紅一点への成り行き

今だからこそおたくの界隈の紅一点は出来にくい傾向にあり、SNS使用前提での交流が健全な男女比の界隈を育てていると言っても過言ではない。

しかしながら先述のように未だに秋葉原におたくの界隈とその紅一点がいるイメージが拭えないのも事実。

であればどういった状況でそうなるのか、そうならざるを得ないのかを考える必要があろう。

答えは簡単で、男女比が極端に偏っている界隈に所属している場合交流が選びにくくなり、そういう状況が出来上がってしまう。

これが定義した必然的紅一点のいわれである。

主には男性人口が多かった界隈に女性が参入している場合であるかと思う。スポーツ、車、バイク、ゲーム、アニメや漫画などが挙げられるだろうか。

特にゲーム、車などは性別による趣向の差もさることながら男性に買ってもらいたいからカッコいいものにしてみたり男性が興奮するようなシステム(対戦等)や性的に可愛いキャラクターを取り入れたりすることに重きを置く傾向にある。

そのため女性ユーザーを積極的に取り入れる努力が相対的に見当たらない。

そうなると男性人口が増えるのは必然であり、それが好きな女性が交流を持とうとすると紅一点になるのも必然である。

 

 

2:客観的に見たおたくの界隈の紅一点

当たり前ではあるがおたくの界隈の紅一点になんかしらの反応を示す際の前提としてはおたくの界隈の紅一点をネガティブな話題としてしばしば取り上げられる。

しかしそれは紅一点当事者のみに貼られるレッテルなのかと言われたら疑問が残る。

やはり界隈そのものに対してもネガティブなレッテルが貼られてるように思えるしそういう界隈に所属してる人なら日常茶飯事レベルのものかと思う。

それが善か悪か、そんなものはどうでもよく何故そういう状況ができるのかの考察を述べたい。

 

おたくの界隈の紅一点を中傷するその人はほとんどの場合紅一点を有さない界隈の人間であることが多い。僻みであろうか、自分はそうでもないパターンが多いのではと考える。

「囲い」と「姫」の「気持ちが悪いイチャイチャ」を中傷するその人Aがそれを目の当たりにした際「気持ちが悪いイチャイチャ」をネガティブに捉える。紅一点当事者との交流が中傷者Aにはないが故に起きる現象であり、Aは必ず自分よりあいつらは劣っていると認識するのではないか。

主観的価値基準でマイナスな行為をする界隈、自分は潔白、純粋無垢。

主観的に完全勝利と形容出来る状況に対し自分の価値が高まっていると錯覚させられる。

自戒の念も含まれているのだろうか。

 

 

3:主観的観点、客観的観点

「俺らオタサーじゃねえし」

「私姫じゃないから」

これは主観的観点である。しかしそれを見た人間がおたくの界隈とその紅一点かどうかを判断するのは見た人間が決めることであり、当事者の意見は関係ない。

労働者Aが俺はこんなに仕事頑張ってますと直接発言するのはお門違いで、その働きぶりを見る評価者Bが客観的に見たとき初めてそれが評価となるのと同じである。

更に言えば界隈の客観的観点には特定個人の意見だけでは定まらず不特定多数の意見の多数決によるものであるという前提が成立する。

これが念頭になくおたくの界隈に所属し好き勝手に気持ちが悪いイチャイチャを見せびらかしておきながらいや俺はそういうのじゃないから勘違いしないでくれる?なんていわれた日には沸点が著しく低下するのを覚える。

 

 

4:“きもちがわるいおたく”

何故かは分かりかねるが傾向として必然的紅一点が生まれる界隈は“きもちがわるいおたく”の割合が非常に多い。環境が劣悪なのかもしれないし、人は環境に影響されやすいことの証明となる。

出る杭は打たれるということわざのように界隈の浮いてる存在などを排除しようという動きはごくごく自然の摂理であるし否定をする気もない。

的確に意思の疎通が図れない、常識が通用しない。そういった懸念はいわば恐怖であろう。

容認する層と本体を丸ごと見下し自意識を保ち優越感のトリップへと自らをコントロールする。”きもちがわるいおたく“って最低なやつらだ、それでこの話を締めたかった。しかし根底には問題視されていなかった本当の問題が眠っている。

 

1.”きもちがわるいおたく“の形成

2.必然的紅一点の誕生

3.必然的紅一点の排除

4.”きもちがわるいおたく“の保存

 

これら全てを支える環境が1から4を繰り返させる。これは”きもちがわるいおたく“が一生抜け出すことのできない負の螺旋階段であり、これの解決を抜きにして些細な行き違いをねじ伏せようとする思考回路こそが”きもちがわるいおたく“の根本なのではないか。